だいたい人間てやつはしょもないもんです。視覚にしたって、変わったもの違ったものに目がいきます。聴覚にしたって、まあ気持ちがいい快適なのがいいって人もいるけれど、騒音みたいな音楽は山ほどあります。
いい匂いも好きだけど、それより臭いのは絶対嫌といいながら、それに強く結ばれているっていう少なくないでしょ。かく言うわたしも、未だにフリージャズの即興ほどの緊張感や疾走感は忘れられません。くさやの干物は忘れられません。あの皮膚をこすったときのクリの花の匂いというより、臭い匂いは懐かしくもあります(笑)。腐ったにんじんを堆肥に鋤きこんだ畠で腰が抜けてたてなくなったことがあります。
五感はまず「異和」に反応するわけです。これはしょうがない、生存の基本なんです。
危ないものを見つける。臭いものを嗅ぎ分ける。異常な音に身を潜める。人間は五感をフルに活用することで何とか生き延びてきた。だから、五感を働かせるとき、いつも異和を求める。それが習性になって、今も暮らしのなかで生きています。
たとえば、ニュース。ハッピーになる気持ちのいいニュースなんてほとんどありません。戦争、殺戮、殺人、災害、事故。こうした刺激に慣れてくると、自分には危害の及ばないものは、「怖いもの見たさ」で見れるようにもなります。騒音みたいな音楽も平気になる。まあ、そんなものです。
「悼む」というのは、8月15日前後にはよく聞かれる言葉ですが、他者の痛みを感じてこころが「痛む」ことからついたのではないでしょうか? 痛みがストレスとして筋肉に緊張として伝わるのです。私たちよりもずーっと敏感だった古代の人たちは、自分の痛みだけでなく、他者の痛みも感じたのかも知れません。
きれいなもの、安全なもの、変化のないものは退屈なんです。
先日、皆川達夫先生指揮の市民合唱団『中世合唱団』の公演に行ってきました(平成15年の話)。5月1日にNHKの番組『こころの時代~宗教・人生 「宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえ る」で、歌ってない音が聞こえてくる。それは宇宙的な至福の音だと言うことでした。
あ、倍音のこと言ってるな、と思って、あれは倍音のことですねとお手紙したら、そうだというお返事をいただきました。
倍音の響く音の場に入り込んだら、歓びが溢れてくる。そんな感じの話でした。
完全に共鳴したら自分は感じません。ただ倍音の場合、周波数倍音が音叉のように自己生成するんじゃないでしょう
か? 伝達というより共鳴ではエネルギーロスが少ないんでしょうね。まあ、遠赤外線の共振による輻射みたいなもんでしょうか?
よーするに、異和によって自己確認するというのがわたしたちが普段使っている五感で、共振によって起きるのを第六感まで含めた共鳴感覚とでも呼ぶといいかもしれない。
調整破壊までいったフリージャズと静謐な倍音の教会音楽の間に私はいます。
多分これが干渉ってやつの原理に潜んでるものかなあと思った
りしますが、
共鳴と干渉もよくわかりません。
こんど(05年7月9日)の玉木さんのコンサート行きます。晴れたらですが。
周波数倍音、黒木さんの話面白かったけど、音質をつくってい
る微細な振動、音質倍音とでも言うのでしょうか?
そのあたり聞いてみたいです。
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Mame de Cafeのご案内有り難うございました。シンギングボウルの画像をアップしましたので、ご覧ください。なお、最近、期間軸と場について感じるところがありました。
ブログhttp://weeds.way-nifty.com/tetugaku/を参照していただければ幸いです。
コメント by 蒼清風 — 2006/5/3 @ 20:14:27
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