5月21日に、フジTVで放映された「ダヴィンチ最大の謎と最後の秘密」は拍子抜けだったと書いたけど、DVDにダビングしていたら、「むむむ」と唸る場面があった。
最後の最後にスコットランドのロスリン礼拝堂が出てくる。テンプル騎士団が弾圧されたとき、唯一北の果てに逃れた騎士が聖杯伝説の謎を伝えたとされる場所だ。この礼拝堂のスチュアート神父(といったと思う)が、この礼拝堂のドーム天井の梁に彫られた楽器を持つ天使と梁に付けられた奇妙な突起の謎をといたのだという。
「音には形がある」と神父は語り出す。突起に彫られた図象は、楽音を表していて、いわば譜面だということらしい。採譜された曲がほんの僅かだけ流れる。子守唄のようだ。
図象譜といえば、わたしたちには楢崎皐月のカタカムナで知られるけれど、ここのは音符のようなものらしい。
「音には形がある」。不思議だ。まあ、音の高さを周波数と理解すれば、音の伝達速度もわかっているから共振するのもなんとなくわかる。シオン修道会の歴代総長の一人ドビッシーにもまたダヴィンチに負けずおとらずの謎がありそうだ。
「教会建築は史上最大の楽器である」を信条とするわたしを欣喜雀躍させる言葉だ。
そこへ『タンパク質の音楽』筑摩書房 が飛び込んできた。純正律、倍音、超音波、キャピラリー波ときて今度はタンパク質かぁー。いやはや音は不思議だ。
だいたい人間てやつはしょもないもんです。視覚にしたって、変わったもの違ったものに目がいきます。聴覚にしたって、まあ気持ちがいい快適なのがいいって人もいるけれど、騒音みたいな音楽は山ほどあります。
いい匂いも好きだけど、それより臭いのは絶対嫌といいながら、それに強く結ばれているっていう少なくないでしょ。かく言うわたしも、未だにフリージャズの即興ほどの緊張感や疾走感は忘れられません。くさやの干物は忘れられません。あの皮膚をこすったときのクリの花の匂いというより、臭い匂いは懐かしくもあります(笑)。腐ったにんじんを堆肥に鋤きこんだ畠で腰が抜けてたてなくなったことがあります。
五感はまず「異和」に反応するわけです。これはしょうがない、生存の基本なんです。
危ないものを見つける。臭いものを嗅ぎ分ける。異常な音に身を潜める。人間は五感をフルに活用することで何とか生き延びてきた。だから、五感を働かせるとき、いつも異和を求める。それが習性になって、今も暮らしのなかで生きています。
たとえば、ニュース。ハッピーになる気持ちのいいニュースなんてほとんどありません。戦争、殺戮、殺人、災害、事故。こうした刺激に慣れてくると、自分には危害の及ばないものは、「怖いもの見たさ」で見れるようにもなります。騒音みたいな音楽も平気になる。まあ、そんなものです。
「悼む」というのは、8月15日前後にはよく聞かれる言葉ですが、他者の痛みを感じてこころが「痛む」ことからついたのではないでしょうか? 痛みがストレスとして筋肉に緊張として伝わるのです。私たちよりもずーっと敏感だった古代の人たちは、自分の痛みだけでなく、他者の痛みも感じたのかも知れません。
きれいなもの、安全なもの、変化のないものは退屈なんです。
先日、皆川達夫先生指揮の市民合唱団『中世合唱団』の公演に行ってきました(平成15年の話)。5月1日にNHKの番組『こころの時代~宗教・人生 「宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえ る」で、歌ってない音が聞こえてくる。それは宇宙的な至福の音だと言うことでした。
あ、倍音のこと言ってるな、と思って、あれは倍音のことですねとお手紙したら、そうだというお返事をいただきました。
倍音の響く音の場に入り込んだら、歓びが溢れてくる。そんな感じの話でした。
完全に共鳴したら自分は感じません。ただ倍音の場合、周波数倍音が音叉のように自己生成するんじゃないでしょう
か? 伝達というより共鳴ではエネルギーロスが少ないんでしょうね。まあ、遠赤外線の共振による輻射みたいなもんでしょうか?
よーするに、異和によって自己確認するというのがわたしたちが普段使っている五感で、共振によって起きるのを第六感まで含めた共鳴感覚とでも呼ぶといいかもしれない。
調整破壊までいったフリージャズと静謐な倍音の教会音楽の間に私はいます。
多分これが干渉ってやつの原理に潜んでるものかなあと思った
りしますが、
共鳴と干渉もよくわかりません。
こんど(05年7月9日)の玉木さんのコンサート行きます。晴れたらですが。
周波数倍音、黒木さんの話面白かったけど、音質をつくってい
る微細な振動、音質倍音とでも言うのでしょうか?
そのあたり聞いてみたいです。