音の幾何学とでもいうべき音とものとかたちについてはおぼろげながらわかってきた。わかりやすく言えば、外在してある音については、ピタゴラス以来数学者の世界だった。倍音について純正律研究会の黒木さんの倍音の解説を引用させていただくと、こうなる。
「自然倍音とは何でしょう? 例えば、ドの音が鳴る弦を弾くとすると、鳴るのはドの音一つではなく、基のドの周波数をn倍した音も同時に響きます。これらの音のことを倍音といいます。すなわち基音がドの時、2倍音はその1オクターヴ上のド、 3倍音はその上のソ、4倍音は2オクターヴ上のド、5倍音はその上のミ、6倍音はそのすぐ上のソというように次々に上に音が積み重なっていくのです」
私が夢のなかで聴いていた音は、どうやら倍音だったらしい。そしてその倍音は、一つの音に含まれていて、どうも次々に上に重なって聴こえるようだ。純正律研究会は、現在一般的に使われている平均率は機械的に12等分した音響破壊律だとして、精細な調律をした響きのいい音律を研究し、普及しようという趣旨でバイオリニストの玉木宏樹さんがつくられたNPOだ。
共鳴は、音叉の実験でわかるように、一方の音叉を鳴らすともう一方も響き出す現象をいう。同音ではなくても起きる倍音共鳴は、もっともエネルギーロスの少ない情報伝達であるだけでなく、そもそも外の振動が内部の振動を引き出す仕組みなのだ。だから、倍音共鳴があなたの中に起きるとき、えも言われぬ快感に襲われるのだ。
それは、魚の対測線や耳石に至る私たの耳の発生と進化が、もっともエネルギーロスの少ない方法を選んでいるからではないのか? すなわち、私たちのいまもっている聴覚が、美しいとか気持ちいいとかハモっているとか感じるのは、実は、私たちがそのように共鳴する環境で生まれ進化してきた結果ではないのか? 聴覚の主要な器官である蝸牛管がなぜ螺旋状なのかは、形態と場を考えなければ、理解できない。アンモナイトのような螺旋が黄金分割比なのは言うまでもない。
聴覚だけではない。美味しいとか美しいとか気持ちいいとかの謎を探っていくと、人間の五感が40億年といわれる生命史のなかで、生まれ培われてきたことがわかる。
読み終わって、テレビをつけたら「ポチタマ」で背骨を損傷した犬が、交通事故にあった飼い主を助けたという「奇跡の犬」談をやっていた。奇跡を起こした犬は、本書中に出てくるシェパード100万ドルの俳優犬ストロングハートのような名犬ではないが、と書き出して、いい犬、名犬、しつけのいい犬というのは、人間の価値観だと気がついた。動物の超能力についてはシェルドレイクや『ペットたちの不思議な能力』があった。動物に人間に理解できない能力があったとしても、それ自体は何も不思議ではない。
著者は犬にはじまり、ガラガラヘビ、バクテリア、みみず、はえと異種間コミュニケーションについて語っている。もちろん、ことばによるものではない。脳でもないかも知れない。沈黙のコミュニケーションに邪魔になるのは人間の「五感」だという。
そういえば、よしもとばななの前書き読み出したとき、「えっ」と驚かされた。本を読み出した頃にベランダのドアから飛び込んできたごきぶりを殺したと言って妻君が持ってきたのだ。マンション住まいなので、家のなかにごきぶりはいない。わき出すほど汚くしているわけでもない。そんなことは数年に一度もあるわけではない。
人間の五感が犬や猫など他の動物や虫に比較したら劣った機能しか持っていないことがあるのは百も承知である。五感を五蘊として執着を戒めたのもわかる。ただ、五感喪失が言われる時代に、五感から第六感や統合感覚や変性意識に至る幸せを考えている者にとって、五感すら超越した魂のコミュニケーションは、うっすらとしか触れようがない。
ただ、犬はすべてを知っているというなら、何となくはわかるような気はする。びっこを引いて歩いていると、まず気がつくのは幼児と犬なのだ。そのとき、相手の目線に降りてクンクンとかバーバーとか言うと寄ってくるのがいる。寄って来たそうにするのはもっと多い。なかには吠えるのもいる。臆病なのだ。犬や幼児に近づけると嬉しい。
五禽技という五つの動物の真似をする気功がある。模倣功と呼ばれるものだ。左右前後、右回し左回しに上半身を揺らす背骨ゆらしのうち、前後に揺らすのは、しゃくとり虫の模倣功とも言える。気功にはこうした、生命の原初につながる功法が散りばめられている。
犬になる、犬を真似ると案外異種コミュニケーションへの道が開かれるかも知れない。
J.アレン.ブーン著 上野圭一訳 SB文庫 638円