前号で「自然を対象として捕らえる(対象化する)前に喜怒哀楽を感じるからです。もう少し正確に言うと、身に起こった喜哀楽を花鳥風月の風情に重ねるとでも言うといいのでしょうか?」と書きました。
喜哀楽は喜怒哀楽から怒をとったものです。喜哀楽は世間的に言うと源氏物語で語られる「もののあわれ」です。「もののあわれ」とは見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べています。それと、枕草紙に頻出する「をかし」でしょう。「おかし」は「趣がある」 とか「風情がある」に「面白い」を加えたニュアンスです。いずれも想いを重ねる技です。
何れも喜哀楽を現す言葉なのがわかります。それでは怒はどこにいったのでしょう?
ここで、つわもの「剛(勇敢)」が出てきます。『会津武士道』(php研究所 中村彰彦)から借ります。武士道といえば、つわものの道ですから。
そのつわものが謳った歌です。
ゆきくれて木(こ)のしたかげをやどとせば、花やこよひのあるじならまし と平忠教(ただのり)、薩摩の守で知られる忠教辞世の歌として平家物語に記されています。出陣にあたり矢をいれる容器に結びつけていたものだといいます。無骨なつわもののイメ-ジと違い、満開の桜を主にみたてた死地に赴く繊細な歌です。もう一句。
吹く風を勿来の関と思へども、道もせにちる山桜かな
源義家が勿来の関を通るときのうたで、勿来は「な来そ」にかけて「風が来るはずもない」の意をかけているようです。
つわものは、見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずることを大切にしたのです。それが、想いを重ねるという方法だったのではないでしょうか?