さくら前線の北上が伝わってきた。今年は例年よりずいぶん早いようだ。しかも京都より関東のほうが早いらしい。花見へのお誘いメールも入ってきた。今週末には近くの柳瀬川の岸辺も満開の桜となるとちょっと信じられない。
お世話になっている三五館から「さくら」と題する画集が届いた。京都在住の奥村京華さんの作品集だ。掛け軸などでさくらを描いている方らしい。水墨画とは違う日本画といっていいのだろうが、空の青、さくらのピンク、新緑の緑、色鮮やかなのに、その繊細さはあきらかに日本画を想い起こさせる。

「さくら」に酔い、「さくら」に染まり、「さくら」で異境に引き込まれたり、「さくら」に涙したり、「さくら」に夢うつつになる。
わたしたちは、原日本語のひびきだけでなく、こうした絵にまで意識変容のきっかけをあたえられる。わたしと絵の「さくら」がシンクロする。夢のなか、無意識におけるように。嬉しいことだ。いやー素晴らしい!
西行の句「願わくば春死なん・・・・」。
さくらの下で法悦境で死ねる。日本人の死生観に「さくら」が深くかかわっていて、それが歓びである。わたしたちは何と幸せなんだろう。
さくらにほとんど関心のなかったわたしに、どうして「さくら」が訪れたのか? わたしは今、奥村さんの絵を追っかけたくなっている。
昨年の12月に発行された「lingkaran」vol.15「こころと身体の大掃除」の監修を頼まれた。うーむ、デトックスって言うのだけはよそうね、っていうことで引き受けた。そのときの巻頭に書いたのが、この原稿だ。
漢方の柱ともいう考えのひとつに「補瀉」の思想がある。「補」は足りないものを補うことで「瀉」は、たまったものを流すことである。これが、気功になると、病は気の滞りが病因とされるのは周知のとおりで、気のつまりをとって流れをよくするのが、主たる目的になる。「補」より「瀉」が重視されて、目に見える栄養や生理を超えて、目に見えない気まで「流れのいい身体」を目指しているのが気功なのだと言ってもいいだろう。
もともと東洋には、補より瀉を重視する文化があった。身も心もすっきりするのをお清めとし、清めが浄めとされるなかで、心身浄化の方法が禊ぎとされた。年が改まるときに訪れるとされる年神を迎えるために、まず、一年間ためこんだものを洗い流し、身も心も清める。
神棚に祀る米・水・塩を少しだけ、よくかんで味わい、精進潔斎する。水垢離はムリでも温冷交替浴で自律神経のバランスをとる。アレルギー体質なら古来から寒風摩擦がある。日本の生活文化に秘められた深い智恵に習って、まず、心と身体の大掃除から始めよう。
この大掃除には、「場」を変えるという方法もある。原因のわからない不調は、昨今だと電磁波やシックハウスということもあり得るから、身も心も洗い清められるようなところに行くのもいい。滝壺で滝行とまでいかなくてもマイナスイオンを浴びることは可能だ。リトリートのように籠もるだけでなく、宿便とりに断食道場へ行ったり、ヨガで日頃使わない間節や筋肉に緩やかな刺激を味あわせてやってもいい。湯治場や岩盤浴で汗を流すのは、まさしく古の智恵そのものだ。
大掃除のあとの暮らしまで視野にいれた体験の旅なら、実りも多いに違いない。
ただ、いちばん大事なのは、日々、快食・快便・快眠・快汗・快感の五つの快を実現し、流れのいい心や身体にしていくことを忘れないようにしたい。
呼吸法や背骨ゆらしのように、誰にもできる簡単な動作を繰り返しているうちに気持ちがよくなる。気持ちのいいことは日々の暮らしのなかで朝、顔を洗うように定着する。おいしいご飯と気持ちのいい排便は、玄米菜食にときどき空腹を味わう週末断食。深い睡眠は倍音の多いクリスタル・ボウルのようなCDを眠りの友にすればいい。不眠症は、脳の過剰興奮、意識の病だから、意識のこだわりを捨てればいい。気持ちのいい汗をかくのは、ミストサウナでも電気を消してフローティング・キャンドルの明かりで入る中温浴でもいい。
こだわりを捨て、心の甲羅を脱いで、意識を五感やからだにフォーカスする。そうすると、深い気持ちよさや心地よさを味わえるようになる。それは至福感と言われるものに近く、そういう体験をすると生きる自信が湧いてくる。「いま、ここ」に集中すれば、所詮、観念である「死」すらこえて、生きる歓びにささえられている自分が実感できるに違いない。