前回書いた『リンカラン』のとき、じつはもう一本用意していた原稿があった。
冬至を境に、日々、陽の出は早くなる。いつもより10分早く起きるようにするところから始めて、初夏には日の出の頃に起きるように調整してみるといい。早起きは三文の得どころではなく、「人生の宝」なのに気づく。
起きたら、布団やベッドの上にあぐらをかいて、朝日を浴びながら背骨をゆらす。前後、左右、右まわし、左まわし、それぞれ9回づつ、なるべくゆっくり大きくゆらす。背骨を棒のようにではなく、しなやかな柳のようにだ。計36回が30回だったり、数を数えていないこともたびたびある。そもそも、半分朦朧としているときもあるくらいだから、回数にこだわっているわけじゃない。気がつくと10分~15分以上たっている。
瞼の裏に光が黄色や赤の輪をえがき、鳥のさえずりが飛び込んでくる。鳥の歌が共鳴して自他の分別がつきがたく同化するようになる。むしろ、半分朦朧としながらのほうがいい。ゆらすというより、ゆれているという感じか。ときおり、首や背骨がごりごりなったりする。凝っている肩や張っている腰、普段は感じないからだの違和感を覚えたりすることもある。
これが、気功の第一人者である津村喬氏が提案する「背骨ゆらし」である。吐息をはききる呼吸を意識すれば呼吸法でもあり、海の底でたゆとう海藻や柳の枝をイメージすれば模倣功。立ってやれば禅密功という気功だそうだ。外丹功の予備功にも五禽戯の鳥形にも似たのがあるというし、亀蛇功にもあってそれらを津村さんが、簡便化したものだ。からだの違和感に集中すれば「からだの声」を聞く方法でもあるし、サウンドスケープ・デザインのマリー・シェーファーが提唱した耳をすまして世界を再認識する方法でもあるということになる。自発動(野口整体でいう活元)でもあるから、からだが動きだすほうに身をまかせればいい。きまりはない。
ただ、いつでも、どこでも、誰にでもできるというのは、存外難しいのかもしれない。人は簡単なことや当たり前であることを軽視しがちだし、動きの大きいものや速いものに目を奪われがちだからである。呼吸のような単一運動に意識を集中して繰り返していると、セロトニン神経が強化されて、気持ちよくなるといわれている。続けていると気持ちよくなってくる。気持ちよくなれば、毎日の暮らしのなかで顔を洗ったり、ご飯を食べたりするように、無意識に自然にできるようになる。それが「身につく」ということだ。気功でいう練功。「練」は繰り返し、繰り返し練るように積み重ねることで、練習という言葉にもなっている。スポーツではトレーニングだ。
自然や天然、地球や宇宙とつながる深い心地よさを味わう暮らしをしていると、シンクロニシティがどんどん起きるようになる。これが、マクロビオティック・シンポのところで書いたわたしのシンクロニシティだ
昨年の12月に発行された「lingkaran」vol.15「こころと身体の大掃除」の監修を頼まれた。うーむ、デトックスって言うのだけはよそうね、っていうことで引き受けた。そのときの巻頭に書いたのが、この原稿だ。
漢方の柱ともいう考えのひとつに「補瀉」の思想がある。「補」は足りないものを補うことで「瀉」は、たまったものを流すことである。これが、気功になると、病は気の滞りが病因とされるのは周知のとおりで、気のつまりをとって流れをよくするのが、主たる目的になる。「補」より「瀉」が重視されて、目に見える栄養や生理を超えて、目に見えない気まで「流れのいい身体」を目指しているのが気功なのだと言ってもいいだろう。
もともと東洋には、補より瀉を重視する文化があった。身も心もすっきりするのをお清めとし、清めが浄めとされるなかで、心身浄化の方法が禊ぎとされた。年が改まるときに訪れるとされる年神を迎えるために、まず、一年間ためこんだものを洗い流し、身も心も清める。
神棚に祀る米・水・塩を少しだけ、よくかんで味わい、精進潔斎する。水垢離はムリでも温冷交替浴で自律神経のバランスをとる。アレルギー体質なら古来から寒風摩擦がある。日本の生活文化に秘められた深い智恵に習って、まず、心と身体の大掃除から始めよう。
この大掃除には、「場」を変えるという方法もある。原因のわからない不調は、昨今だと電磁波やシックハウスということもあり得るから、身も心も洗い清められるようなところに行くのもいい。滝壺で滝行とまでいかなくてもマイナスイオンを浴びることは可能だ。リトリートのように籠もるだけでなく、宿便とりに断食道場へ行ったり、ヨガで日頃使わない間節や筋肉に緩やかな刺激を味あわせてやってもいい。湯治場や岩盤浴で汗を流すのは、まさしく古の智恵そのものだ。
大掃除のあとの暮らしまで視野にいれた体験の旅なら、実りも多いに違いない。
ただ、いちばん大事なのは、日々、快食・快便・快眠・快汗・快感の五つの快を実現し、流れのいい心や身体にしていくことを忘れないようにしたい。
呼吸法や背骨ゆらしのように、誰にもできる簡単な動作を繰り返しているうちに気持ちがよくなる。気持ちのいいことは日々の暮らしのなかで朝、顔を洗うように定着する。おいしいご飯と気持ちのいい排便は、玄米菜食にときどき空腹を味わう週末断食。深い睡眠は倍音の多いクリスタル・ボウルのようなCDを眠りの友にすればいい。不眠症は、脳の過剰興奮、意識の病だから、意識のこだわりを捨てればいい。気持ちのいい汗をかくのは、ミストサウナでも電気を消してフローティング・キャンドルの明かりで入る中温浴でもいい。
こだわりを捨て、心の甲羅を脱いで、意識を五感やからだにフォーカスする。そうすると、深い気持ちよさや心地よさを味わえるようになる。それは至福感と言われるものに近く、そういう体験をすると生きる自信が湧いてくる。「いま、ここ」に集中すれば、所詮、観念である「死」すらこえて、生きる歓びにささえられている自分が実感できるに違いない。