20代半ば、1975年頃の話だ。当時私はパリにいた。
貧しかった。とはいっても、寝床になる安ホテルはあったし、カフェに入るのに困ったことはない。ポケットの小銭を確認したり、ためらったことはあるけれど。有名な市のたつアリーグル広場で、市が終わったあとの野菜くずを拾おうかと迷ったこともある。結局拾えなかった。いつの頃からか「王子と乞食」のとりかえばや物語が夢でもあったので、その程度の貧しさは苦労ではなかった。
安ホテルは当時、巨大な穴を掘り返していた旧レアール市場の近くにあった。クリスマスだったので、レアール広場横にあるサントゥスタッシュ教会に行った。まあ、西欧のクリスマスはどんなものか観ておこう、くらいの軽いノリで、数人の友人たちと誘い合わせた。よくわからないミサは荘厳でもなく退屈だった。聖歌隊もオルガンもボリュームをしぼっていて、それが目当てだった私を失望させた。説教が主だったのだ。小一時間くらいいて、「退屈なもんだね」といいあいながら教会をあとにした。
帰路ホテルの近くのカフェで財布と相談しながら、ワインを一杯飲んだ。夕食もまだだった。ローストチキンもケーキもない、パリ一みすぼらしい集まりに見えたに違いないが、十分に幸福だった。
安ホテルのひと形にへこんだベッドに倒れ込んだら、うたた寝していた。私の至福のひとときはこのうたた寝の数分くらいの間のことだ。夢のなかでパイプオルガンの演奏が聞こえてきた。耳をすましていたのによく聞こえなかったパイプオルガンだ。重層的でバッハのようだが、曲ではない。ただうねりながら音が重なっていく。上へ上へと。現実にはありえない音を聞いていた。とにかく気持ちがよかった。歓喜、エクスタシー、法悦、言葉にはできない。極楽とはこれかと思うほど気持ちがよかった。もちろん後で形容してそう言っているのだが。
どんどん上にいくうち、位階性という言葉が浮かんだ。詩の雑誌などで耳にしていた言葉だ。もうこれ以上は行けないと感じはじめた。そんな言葉を思い出したら夢のなかで飛べなくなるように極楽は終わって目を覚ました。気がつくと股がぬれていて夢精していた。性的妄想はいっさいなかった。
夢のなかで音や音楽を聴くことは、それまでにも何度かあった。新宿三丁目にあった草野心平が名付けたという居酒屋でバイトしながら、PIT-INNの二階倉庫を改造したニュージャズホールにたむろしていた頃は、とりわけよく夢を聴くことが多かった。共通しているのは、空腹と酔いと疲労とライブのあとだ。
夢のなかでの音体験のときは、自分がプレーヤーだったこともある。楽器を操作すらしないプレーヤーだ。即興演奏の現場に立ち会うというのは、自分もプレーヤーのインナープレイに入り込むことだから、張りつめた演奏のときなど、聴くだけではけっこうストレスがたまる。それが夢のなかでは、楽器や技術の媒介なしだから、「思う」すなわち演奏するのと聴くのとが自由自在で同時なのだ。
外部刺激と持続的集中ということでいえば、ヒアリング体験がある。渡仏当時、フランス人の若者のパーティにつきあったことがある。何やら催眠術のことを話題にしているくらいしかわからない。彼らはこっちのことなど気にもせず熱中してまくしたてている。深夜二時くらいまで何とか聞き取ろうと五時間くらいつきあった。疲労困憊して帰って眠りについたときも、夢のなかでフランス語の会話を聴いた。意味不明の音楽のようにだ。そのときも自分は粗末なボキャブラリーで流暢に話していた。
このときのクリスマス体験は私を決定づけた。けっして敏感だったわけではない耳が音浸かりの新宿暮らしや異国体験で陶冶されていたとはいえ、快楽とか愉悦という次元の言葉でいい表せるようなものでなかった、法悦とかひょっとすると自己を超越する異次元体験、臨死体験のようなものだった。変性意識状態にこだわらざるをえない「至福の音探し」の旅はこうして始まった。