わたしが、日々シンクロニシティで生きている。といってもなかなかそれをわかってくれる人は少ないので、それなら、日々起きていることをそのまま日記のように書こうと、前回、前々回と書いてきました。
「ラストサムライ」は、LOHASマニュアルを頼まれて、どうもこの英語がしっくりこないので、自分に馴染む言葉でいうとなんだろうみたいなことを考え出したのがきっかけでしたね。
そうすると、どうもわたしたち日本人はもともと極めてLOHAS的な暮らしの文化を持っていたんじゃないかと気がついたというか、頼まれたときから直感的にわかっていたわけです。
遡るというか「後ろ向きに馬にのる」っていう感覚ですか?
だからLOHASも磐座(イワクラ)も、古代もわたしには同じ作業です。遡るのは嫌いじゃない。というか、前にいくには後ろをきちんと見ておかないと進めないということだったわけです。
で、幕末・明治とか江戸と京都かなあ、と読みすすめながら、日本人の幸福感っていうところで、「ラストサムライ」にであったわけです。
昨日、旭屋で『ほんまに京都人だけが知っている』を見つけました。洋泉社から3冊シリーズが出てるんだけど、目次に「石」とあったので、これを選んだんです。
そしたら、書き出しが「ラストサムライ」の話です。
えっ、エッ、と思いますよね。だれでも。
amazonで「ラストサムライ」のDVDを買った。
先週末のことだ。
確か1000円しなかった。
そのときにチェックしたのは、他には「ラマン」「冒険者たち」「ネル」「ラストオブモヒカン」といちばん欲しい「二十四の瞳」だ。木下恵介はDVDボックスが出ているのだが、単作では売られていないし、3千円以上する。
丁度、LOHASマニュアルで江戸とか日本人の幸福感みたいなことを考えているときだった。幕末から明治に来日した外国人が、すみずみまで掃き清められた道、無邪気な子どもたち、質素だけれど幸福そうな庶民を見て絶賛しつつも、この文明が失われることを確信していつつも惜しんでいるというようなことを書いていた。
で、振り返るべき時代として60~70年代のカウンターカルチャー時代、昭和30年代、大正生命主義時代、江戸などと書いていた。
そんなこともあって、申し込んだ。意識的にではない。たまたまである。安かったのももちろんある。
そうしたら、今朝(12月6日)の朝日朝刊に教育基本法改定論議に新渡戸稲造の「武士道」が注目されているという記事があって、そこに「ラストサムライ」も引用されているのだ。しかも新渡戸が「武士道」を書いたのは階級としての武士がいなくなって100年後のことだともそえられていた。
吉田兼好が『徒然草』を書いたのは鎌倉後期だが、平安時代風に書いたものだと書いていたところだった。100年前に遡って書いたのだ。
言葉は時間を遡行する。言葉は「永遠の今」を現存させるタイムマシーンなのかもしれない。
言霊のさきわう国で、時間の乗り物をもらった幸せを忘れてはなるまい。