前号の「共鳴と共振」で「共振は同じ波長の音に導かれるようにして他の音が自然になり出す現象をいいます。音叉やギターのハーモニックスで耳にします。どちらの音が叩くなり、こするなり、つま弾くなりのはたらきかけを受けたのか分らなくなります。共鳴はここに音色がくわわります。音色まで同調するのです。これらは、音の深いところで起こるのでときに魂の音楽とか宇宙の音楽とか言われます。」と書きました。
共鳴は、共振のような物理現象も言いますが、もっと広い意味で思想や心情に同調する場合も使われます。この場合は間にことばが介在します。でもわたしたちが、何気なく使っているこのことばって何なのかさっぱりわかりません。
宇宙に響く音を言葉にしたとして知られるものに天才的物理学者楢崎皐月が出会ったカタカムナがあります。まあ、赤ん坊が言葉を覚える過程をみても、パロール(話し言葉)がエクリチュール(書き言葉)に先んじて早くからありますからカタカムナがパロールを土台にしているのは、当然です。
ただ、あまねく響き渡る宇宙の音を48音にして、それを言葉としたときの配列が、「宇宙が創造をした時の展開順に音を写し取った」のがわたしたちが使っている日本語の母体となっているカタカムナだと言うのです。
確かにわたしたちの日本語には不思議なことに単音が意味を持っています。ひは火であり、日であり、陽であり、一つです。ふは風であり、不であり、負であり、二つです。みは水であり身であり、実であり三つです。はは葉であり歯であり端です。当て字かというとそうではありません。外国人にその不思議をいうと「意味が違う言葉をどう使い分けるのか?」と言います。わたしたちは、文脈やイントネーションによって使い分けています。何不自由ありません。
日本人があいまいで、「言わなくてもわかるだろう」と以心伝心を重んじるのもカタカムナを母体に日本語が発達した共鳴や共感にあるからのようです。
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