シンクロニシティは共時性とか「意味のある同時生起(コインシデンス)」といった意味で使われるようです。まったく情報のやりとりや連絡があるわけでもないにもかかわらず似たような体験をしたり、同じことを考えていたりするのです。それは普通偶然として片付けられることが多いのですが、どうもそこになんらかの隠された意味を感じてしまうのです。ユングの集合的無意識が説明のひきあいに出されたりもします。いずれにしろシンクロニシティが起きると不思議な感じを受けます。
どうしてそんなことを言うのかと言うと、8日の日に娘から電話があって「新月伐採の木」という言葉がでてきたのです。
冬至の新月の日に伐採した木は、腐らず、暴れず、狂わず、そらないだけでなく燃えつきずらいので、この木で建てた家は千年使えるというのです。まあ千年というのは実証されたわけではないのですが、今言う長持ちする200年住宅のはしりではあるでしょう。地湧社の社長の増田さんが代表になって「NPO法人新月の木国際協会」をつくっています。確かに家にはもとの発案者であるオーストリア人の林業家エルヴィン・トーマさんの書いた『木とつきあう智恵』という地湧社の本が本棚に収まっています。でも娘にはその話をしたことはないはずなのです。ましてや新月伐採などまだまだ一般的な誰もが知っている話ではありません。娘に言わせると周りでは結構普通の話題のようですが。これも偶然でしょうか?
それにしても、丁度読んでいた本が『マヤン・カレンダー』というマヤの暦の本で、そこにはシンクロニシティについて語られているのです。そこには、「ひとつの全体性(世界、地球、コミュニティ、友人関係)がいちばん<そのこと>を必要としているときに、個人が周囲との調和を保ちながら、自分の望み、欲望として<それ>を行うこと」と説明しています。
わたしの場合が正しくシンクロニシティかどうかはともかく、こんな不思議なことってあるでしょうか?
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