人間が自然の一部であるのは間違いありません。しかし、都会暮らしのわたしたちはついそのことを忘れそうになります。
分かれた自然を意味する言葉が「自分」と表記することでもわかるのですが。
自分の身の回りに、なるべく自然であるものを一日ひとつ見つけることにしているといったのは、かの養老孟司先生だったと思いますが、そういうわたしたはどんどん自然から遠ざかった暮らしをしています。
あなたは、身の回りに自然を感じていますか?
稀代の数学者であった岡潔先生は、「自然が自分にあるとしか思えないのは、自分にわかるからである。自分にわかるというのは自分の心の働きである。だから自然は心の働きである。」と言っています。ちょっとわかりづらいですが、この一言をわたしはこう理解したのです。
日本人は花鳥風月に自然と自分の心のうつろいをうたってきました。
それをわたしたちは直観的にわかります。ここでわかるというのは、感覚的に全体的にわかるという意味です。分析知や理性でわかるとか言うのとは違います。
例えば、道真のこの歌。
東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花
主(あるじ)なしとて春を忘るな
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる
ねがはくば 花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃
と詠んだ西行法師はこの句のとおり春に亡くなったそうです。
自然を対象として捕らえる(対象化する)前に喜怒哀楽を感じるからです。ですから先に挙げた歌が視覚に依らない感覚、気配を謳ったものである背景には共感という理由があります。共感は瞬時にパッとわかります。
しかし、分けて対象化する理性的な智は手間がかかります。確認するのに鏡を必要とするのです。鏡や水鏡のような写すものがなくては自己確認もできない存在、それが人間なのです。鏡を手に入れる前に、自然を花鳥風月に感じる心に持っていた、すなわち自然を心に持っていた日本人は、「自分」にわかっていたのです。
そもそもわたしたちは、他人の苦痛がわかりません。他人の喜びもわかりません。しかし、自分のことなら痛みでも喜びでもわかります。これはどうしてなのでしょう。
自然への共感が他人への共感につながる。それが岡先生の言っていることなのでしょうか?
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