人は世界をどのように受け取るか? というのが私の大きなテーマになったのは、そんな出来事からだった。昨今なら世界を宇宙という人も、別次元という人もいるに違いない。
当時の自分は特別な状態にあったとして自分を納得させるのは楽だが、そうはいかなかった。ここでは詳述しないが、「匂い」においても「音楽」と同じような体験があったからだ。
そんなことが、たびたびではないにせよ何度かあると、自分の関心が「官能」に向かうのは、しかたがない。体験した大きなストレスが「トラウマ(心的外傷)」になるのと同じだ。幸いなことに私の場合は、離脱すべき対象としてではなく、どうしてそれが私に起こったかの意味を探る対象だった。
最近は「官能」と公言したのでは、どこぞの官能小説家と誤解されて笑われるので、「感応」とか「観応」と言うようにしているのだが、これでは「歓び」が伝わらない。
大事なのは、それが存在の根底にある歓びであることを伝えることではないか? いつからか、私は「生は歓びに満ちて始まり、終わる」と思うようになった。
生を苦と説き、生老病死を四苦と説いた仏教思想とは正反対だが、「無量寿経」「観無量寿経」が根本教典であると言われる浄土真宗とは矛盾しない。無量寿とは量ることはできない寿、歓びをいうのだから。
最初の一節、「帰命無量寿如来南無不可思議光」は西方浄土に向かって南にたつ自分を無にして命に帰れば、光にあふれた如来が来迎し、その歓びははかることができない、というような意味だと聞いたことがある。命に帰るというのは、預かった命を返す、すなわち死ぬことだ。無量寿経は死もまた歓喜であるというのが最初の一節に謳われたお経なのだ。もちろん、死が歓びに満ちたものになるのに生き方としての精進がなければ、苦と悲惨のなかにいるたくさんの人が喜んで自死を選ぶことになるから、方便だとしても四苦を説くことに理由がないわけではない。
人は日々、世界を感受することで生きているが、その根源にはイノチとしか名づけようもないものがある。イノチが何であるかとかどこから来たかはわからないが、「原初のイノチが発生した世界の波動と共鳴するとき、人は大いなる歓喜に満たされる」のではないかというのが私が到達した結論だった。世界とはかたちを持って現れた外界の場のことである。
コメント (1) »
ご無沙汰しております。2年前に宮嶋さんと相談して炭埋を自宅に施しました。効果のほどは数値がないので、よく言えませんが、のら猫が良く来て家の回りで寝ております。居間には珪藻土を塗りましたので、すっきりした感覚があり、とても良いようです。亡くなった山下一郎先生は珪藻土にもエネルギーがあると言っていました。
体と精神のことについて別途、ブログ「天地都我在心中」を立ち上げておりますので、一度覗いてください。
体内信号をどう読むか、宮下さんのようにオーリングの達人になれない場合には、土壌の神秘に書いてある一人オーリングの方法やフィンガーテストが参考になります。
コメント by Weeds — 2005/9/6 @ 11:53:59
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