自然治癒力とは何なのか? 人はどうして治るのか? への旅の果ては、禅問答のような野口晴哉の「自分が病まねば、病は自ら去るなり」の言葉を手がかりにはじまる。病んでいない自分から病が去ってしまっているのは、まあ当たり前。じゃあ、病んでいる自分とは何なのか? そもそも自分って何なんだ。
自分って「分かれた自然」っていうこと、っていうのは私の思いつき解釈だ。上野さんは、それを「管理を委託された庭」の考え方で説明している。そして、この庭はいつも同じでなく木々が伸びたり、葉が散ったり、境界があいまいになるほど雑草がはえたりする。風も光も雨も降る。
まあ、自分って私のことでしょっていうのがふつうの答えだ。
上野さんは、「自然」は近代になってnatureの訳語として現れたという。主客を分け対立的にとらえるnatureに、自ずから然り(ひとりでに)という意味をあてた。うーん、明治の人はすごかった。今でも「それって自然でしょ」みたいに使われるからね。そういえば、昔は天然なんていう言い方もありました。「わたし」も語源は「吾宅」で、大宅=おおやけにたいして、私的な家をさす言葉が語源だそうです。庭じゃなくて家かあ。
もともと日本人は、一人称も二人称にも使われるワレやテマエを長い間使ってきた。今でも河内か広島か知らないけど、「ワレはわかっとんのか?」「ワレにはワレのやり方があらあ」なんてやりとりが思い出される。ヤクザ映画の見過ぎ? 大事なポイントは、日本人は自他をそれほど明快に区別してこなかったという点である。その意識は「人のふり見て我がふりなおせ」とか「明日は我が身」などという言葉と文化を生んだ。つい三、四十年前まで日常語だった。そればかりではない。自然に神が宿るように、自然である人も神として崇めた。内なる自然と外の自然はつながっている、響き合っていると直観していたとでもいうことでしょうか?
自分=わたしが曖昧だった時代に、病が多かったのか少なかったのかはわからない。ただ、自他が明快でない意識状態、明晰夢とか催眠退行とか変性意識という状態に集合的無意識へアクセスする扉が開かれ治癒力が活性化するというのは、わかりやすい話ではないか。
治りやすい自分になる道、自然治癒力が働き出す12の力を、自然力、場力、感応力、無意識力、代謝力、呼吸力、信念力、イメージ力、放棄力、絆力、愉快力、患者力とし、説いている。
私たちにとっては、上野さんが、幼少時に溺れたことや断食体験、TV 局時代の腰痛体験や、鍼灸の師との出会い、老母との鍼をとおしてのコミュニケーション、バークレーでのこと、引っ越しの話などが開陳されていて、興味はつきない。始めて語られた体験をどのように糧にされてきたか、その旅につきあわせていただくような楽しみも多い。
病と健康について語られたものでこれほどの本をわたしは知らない。
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