日本語を意識するようになったのはいつ頃のことだったでしょうか?
「自らを誇ろうとしないのが、日本人の文化ですが」と前置きをして筑紫哲也さんが
ニュース23で「日本人の誇り」特集をやっていたとき、そもそも純血の日本人っていうのはいるのか? っていう疑問と、それにもかかわらずわたしたちは何をもって自分を日本人と判断しているか興味が湧いたわけです。
だいたい「誇り」なんていう言葉、オンではホコリです。埃です。きっと翻訳語でしょう。もともとはたけばでるものを大げさに誇張するときに使われたんじゃないでしょうか。誰でもたたけばでる塵芥のようなホコリを漢字にあてはめ換えた。すごい智恵ですね。
だから、映画「誇り高き男」が封切られたとき奇妙な違和感を抱いたのを覚えています。
外国に行くと結構いるんです。自らの存在に確信を持てず、劣等感を誇りにすり替える日本人が。ていうか、わたしもそうした日本人の一人でした。
日本人とは誰か? ということで言えば、
古代には人々はわたしたちが考える以上にずーっと自由に行き来していたわけだから、日本列島に住んでいた民と東アジアを往来して日本列島に住み着いた民ということになるでしょう。
日本の文化は何かということなら、養蚕、絹織物、鉄器、冶金技術のような日本の伝統工芸だって、渡来系の技術です。日本人は古来から人種混淆してきたのは間違いのない事実ですね。ユダヤの七部族はわかりませんが。日本人とは誰か?なんて考えることはあんまり意味のあることではないような気がします。
一方、明確に日本人とガイジンを区別する目安はあります。言葉です。ケント・デリカットやケント・ギルバートははっきり外人ですね。見かけも日本語も外人のものです。じゃあ、ダニエル・カールさんやベッキーさんはどうでしょう?
見かけは外人だけど、話す日本語は日本人と同じです。カールさんはまだちょっとアクセントが残っているでしょうか?
ベッキーなんか、自分のこころは日本人と言っていてわたしもそう思う。きっとこの子は、
「静けさや 岩に染み入る 虫の声」
なんて句の感じを感じ取れるんだろうと思うわけです。虫の音も蝉の声も意味のある風情として感じられるんだろうと思います。
西欧人には雑音にしか聞こえない自然音、虫の音、蝉の声、川のせせらぎ、木の葉のざわめき、普通倍音成分が多いとされる音を日本人は左脳で処理している、だから日本人はこれらの自然音に意味を感じると説いたのは『日本人の脳』を書いた角田忠信先生ですが、もうちょっというなら、意味のある言葉としてではなく、意味のある言葉になる前の情感として感じることができるということだろうと思います。
わたしたちは、世界を意味として分けて切り出す前に、世界を感じられる脳をもったというなら、これほど嬉しいことはありません。
日本人とは誰かとかホコリのような誇り論議などチリ芥です。
黒川伊保子さんの『日本語はなぜ美しいのか』はそこのところを追求した労作です。そして、その根源に日本語を母語とするわたしたちが、こうした感覚を持ち得たのは日本語が世界にも類をみない母音語であることをあげています(世界中で母音語は日本語とポリネシア語しかないそうです)。
日本語脳を持つようになった日本人はどのように未来に向かえばいいのか? 次回は、日本語は外人アクセントだけど、わたしたち以上に古い日本的生き方を大事にしているイーデス・ハンソンさんとか日本人の自然観に沿った暮らしをしているクロード・ニコルさんなんかを引き合いに出しながら、考えてみたいと思います。

