シンクロニシティは共時性とか「意味のある同時生起(コインシデンス)」といった意味で使われるようです。まったく情報のやりとりや連絡があるわけでもないにもかかわらず似たような体験をしたり、同じことを考えていたりするのです。それは普通偶然として片付けられることが多いのですが、どうもそこになんらかの隠された意味を感じてしまうのです。ユングの集合的無意識が説明のひきあいに出されたりもします。いずれにしろシンクロニシティが起きると不思議な感じを受けます。
どうしてそんなことを言うのかと言うと、8日の日に娘から電話があって「新月伐採の木」という言葉がでてきたのです。
冬至の新月の日に伐採した木は、腐らず、暴れず、狂わず、そらないだけでなく燃えつきずらいので、この木で建てた家は千年使えるというのです。まあ千年というのは実証されたわけではないのですが、今言う長持ちする200年住宅のはしりではあるでしょう。地湧社の社長の増田さんが代表になって「NPO法人新月の木国際協会」をつくっています。確かに家にはもとの発案者であるオーストリア人の林業家エルヴィン・トーマさんの書いた『木とつきあう智恵』という地湧社の本が本棚に収まっています。でも娘にはその話をしたことはないはずなのです。ましてや新月伐採などまだまだ一般的な誰もが知っている話ではありません。娘に言わせると周りでは結構普通の話題のようですが。これも偶然でしょうか?
それにしても、丁度読んでいた本が『マヤン・カレンダー』というマヤの暦の本で、そこにはシンクロニシティについて語られているのです。そこには、「ひとつの全体性(世界、地球、コミュニティ、友人関係)がいちばん<そのこと>を必要としているときに、個人が周囲との調和を保ちながら、自分の望み、欲望として<それ>を行うこと」と説明しています。
わたしの場合が正しくシンクロニシティかどうかはともかく、こんな不思議なことってあるでしょうか?
2009/4/9
2009/4/5
前号の「共鳴と共振」で「共振は同じ波長の音に導かれるようにして他の音が自然になり出す現象をいいます。音叉やギターのハーモニックスで耳にします。どちらの音が叩くなり、こするなり、つま弾くなりのはたらきかけを受けたのか分らなくなります。共鳴はここに音色がくわわります。音色まで同調するのです。これらは、音の深いところで起こるのでときに魂の音楽とか宇宙の音楽とか言われます。」と書きました。
共鳴は、共振のような物理現象も言いますが、もっと広い意味で思想や心情に同調する場合も使われます。この場合は間にことばが介在します。でもわたしたちが、何気なく使っているこのことばって何なのかさっぱりわかりません。
宇宙に響く音を言葉にしたとして知られるものに天才的物理学者楢崎皐月が出会ったカタカムナがあります。まあ、赤ん坊が言葉を覚える過程をみても、パロール(話し言葉)がエクリチュール(書き言葉)に先んじて早くからありますからカタカムナがパロールを土台にしているのは、当然です。
ただ、あまねく響き渡る宇宙の音を48音にして、それを言葉としたときの配列が、「宇宙が創造をした時の展開順に音を写し取った」のがわたしたちが使っている日本語の母体となっているカタカムナだと言うのです。
確かにわたしたちの日本語には不思議なことに単音が意味を持っています。ひは火であり、日であり、陽であり、一つです。ふは風であり、不であり、負であり、二つです。みは水であり身であり、実であり三つです。はは葉であり歯であり端です。当て字かというとそうではありません。外国人にその不思議をいうと「意味が違う言葉をどう使い分けるのか?」と言います。わたしたちは、文脈やイントネーションによって使い分けています。何不自由ありません。
日本人があいまいで、「言わなくてもわかるだろう」と以心伝心を重んじるのもカタカムナを母体に日本語が発達した共鳴や共感にあるからのようです。